安楽庵策伝「醒睡笑」

2005/9/7 1:04
仕事を終えて、ドラムのレッスン。
仕事の時間を確保するために30分開始時間を遅らせてもらったんだが……
今日は見学者が2名ってことで、来週からまた20:00スタートかな。
その後栗駒山で引っ掛けて、帰宅。
きりたんぽの話とかしてたような……。

仕事柄いろんな文章(の断片)を読むことが多いんだけど、
最近おもしろいなって思ってるのが江戸期の笑話集。
とくに安楽庵策伝「醒睡笑」は、読んでついつい笑ってしまう。
落語のおおもとって言われているが、落語を大衆的にしたのはこの人ではない。
彼は落し噺を実践していたというが、それを職業としていたのではない。
彼の本職はあくまで浄土宗のお坊さんであって、説教として伝えていたものが、
当時の京都所司代に命を下されて編纂され、「醒睡笑」になったということである。

俺は別に子供の頃から落語・寄席・演芸の文化に親しんだわけではない。
笑点さえも見ない家庭に育った。
しかし、今「醒睡笑」に接すると、可笑しみがふつふつとこみ上げてくるのである。

ちなみに、「醒睡笑」は読んで字のごとく、「睡(ねむ)りを醒(さ)ますような笑い」。
以下、2つの連話を引用してみよう。

その1:
大児と小児、ひたひをよせあはせ、をかしき物語してあそばれけるついで、
大児口すさびに、「もちは食ふ時、さね(種)がなうて、おもしろい物ぢや。」とありしを、
「いや、ただわれはもちにさねがあれかしと思ふよ。ならせて食ひたい。」

テキトー訳:大児と小児が、額を寄せ合って、楽しい話をしながら遊んでいるときに、
大児が心に浮かぶがままに「餅は食べるときに、種がなくて、心地いいものだ」と言ったのを、(小児は)「いや、僕は餅に種があればなあと思うよ……」

さて、ここからがオチ。

ここまでですでに大児の発言に無邪気な意地汚さを感じるのだが、
小児はさらに上をいく。

「いや、(種を蒔いて餅を)成らせて食いたい」(と返した)
そのほうが確かに、たくさん食える〜!

その2:
八月十五夜の月に向かひ、坊主あまた集まり、児も交はり詠み居けるに、
大児、「あれ程のもちをかかへてそろそろと(ゆっくりと)食はば、おもしろからうの。」とささやきける時、
小児、「されば(いや)、大きさはあれ程でもよいが、厚さを知らぬ。」と。

テキトー訳:八月の十五夜の月を前に、坊主がたくさん集まり、子供も交わって歌を詠んでいると、
大児が「あの月ほどの餅を(←また餅かい!)独り占めにしてゆっくりと食ったら、気分がいいだろうのぉ」とささやいたとき、
小児は「いや、大きさはあのくらいでいいが、厚さがわからん」と(返した)。

……つーか、厚さまで気にするかいっ!
どこまでいやしいんだか……。

もちろん子供の会話としているところで可笑しみを感じる部分もある。
が、「すでにそぞろに可笑しい」から「さらに可笑しい」へのつながりが、
笑いを倍化させている。
土壌を作っておいて、そこからとてつもないものを育てている。

こういうのが仕事の合間にあるから、たまらない。