手塚治虫『火の鳥 鳳凰編』

今日から仕事始め。
いやあ、正月休みに不規則な生活をしていただけに、なかなか辛い。
セーブして21:00過ぎに仕事をあがって、野毛で一杯やってから帰りましたとさ。
飲んでる途中に戦友Sから電話があって、いろいろ話してたら携帯の電池が切れたので日記へ。


「間男」、こいつは女性にとって厄介な存在である。
下賎な表現を承知で言えば、人妻食いの男。
ところがどっこい、こいつが戦友Sに言わせると、「マ男」となる。
すなわち「間の悪い男」。
たとえば、「実はあの頃好きだったんだ」と、どーでもよくなってから言う男。
どう考えても飲み会が終わっている時間なのに「まだ飲んでる?」とメールしてくる男。
話をするのもめんどうなのに長電話する男。
こういうヤツを「マ男」と言うらしい。
戦友Sよ、引用許せ。早く『ダメ男辞典』、作りなさい。え、俺も入るって?


野毛の鳥良で飲んでいて、どういうわけかふっと思い出した話があった。
手塚治虫火の鳥 鳳凰編』に登場する、我王と茜丸の話。


我王は生まれたとき父親に抱かれたまま崖から落ちた。
父親は即死。我王は助けられはしたものの、片目で左腕がない。
体が不自由ゆえに村でもなぐさみものである。
そんな我王は、村の力比べでおむすびをかけて勝ち、気の狂ってしまった母親に賞品のおむすびを持ち帰る。
ところが、負けた腹いせにおむすびに泥をかけられた我王は、泥をかけた本人を力任せに崖から突き落として殺し、村から逃亡。母を捨てて追いはぎとなる。
食うために人を殺し、民家を襲いつづける孤高の我王。
しかし、叢のテントウムシを救うなど、心根の優しいところもある。
そんな我王が放浪中に出会うのが大和の仏師、茜丸
火に当たらせてくれと近づいた我王は、茜丸に追いはぎをたくらみ、茜丸の右腕を短刀で切りつける。
茜丸は仏師の命ともいえる利き腕・右腕を失い絶望するが、寺の仏師の教えを受けて、自分には左腕も五本の指も満足に揃っていることを知る。
そして左腕だけで仏像を彫ることを決意。
一方の我王は、茜丸の姉だという女・速魚を連れ、徒党を率いて盗賊を働くが……盗賊仲間に恨まれ、肥大化する我王の鼻を利用した計略に引っかかり、速魚を殺してしまう。
そこには一匹のテントウムシの死骸が転がっており、愕然とする我王。
あえなく囚われの身となった我王は死罪の命を受けるが、旅先で以前すれ違った良弁僧正と再会し、その身を救われる。
良弁から輪廻転生の話を聞いた我王は、死んだら自分は何になるんだろうかと考え、良弁とともに奥州への旅に出る。
その頃、片腕の仏師・茜丸は朝廷の権力者から、3年以内に鳳凰の木像を彫るように命じられ、鳳凰を求めて諸国を旅することとなる。
我王も良弁と諸国を巡るが、重い年貢に荒れた人民の姿・村の姿を見て、その怒りを途上の木や石を刻むことで表現する。
彫られた木仏・石仏は、我王の心をそのままに刻んだ、怒気溢れる表情を見せ、初めて人に感謝されるということを知る。
しかしとある村で、盗人の濡れ衣を着せられ、監禁される。
監禁された洞窟の壁に、茶碗のかけらで石仏を彫り続ける我王。
二年の後にようやく解放された我王の目は、すでに穏やかに澄んでいた。
一方の茜丸は、夢に見た火の鳥をモティーフに見事鳳凰の木像を完成させ、奈良の大仏殿の設計と工事を任される。
大仏殿の完成が近づき、最後に大仏殿の大屋根に鬼瓦が必要となるのだが……ここで茜丸に、日本一の鬼瓦を作る乞食僧がいることが伝えられる。
実にそれは、茜丸の右腕を切り落とした、我王であった。
七日間の猶予を与えられ、鬼瓦を彫る我王と茜丸
我王はこれまでの人生の不条理に対する怒りを露わにし、一心不乱で石を切り刻む。
一方の茜丸は煩悩に苛まされ、なかなか彫刻に集中できない。
かくして七日間は過ぎた。
不満足な出来栄えにもかかわらず、裏工作によって勝利した茜丸に、異議が申し立てられる。
我王の鬼瓦のほうが、どう見ても優れているではないか、と。
ここで茜丸がとった行動は、我王の過去を暴くことであった。
我王は15年前は人を平気で殺す悪党であった、と。
かくなる自分の右腕も、実はこいつに切り落とされたのだ、と。
願わくば同じ目に遭わせて都から叩き出してほしいという茜丸の要望が受け入れられ、我王は右腕をも切り落とされ、都から追放される。
権力に阿り勝利を手にした茜丸。だが、日照りにより大仏殿の裏の蔵が燃え、大仏殿を救おうとした茜丸は焼死。
両腕を失った我王は伏見の山に籠もり、口に鑿をくわえ、石仏を彫り続けたということである。


とまあ、だいぶ長くなってしまったのだが(といっても、これでもかなり端折ってるんだけど)、この話は、深い。
我王という男の生き様への感動はもちろん強い。
人間が生きる本当の強さとはなんだろうか。それは「殺人を犯した」とか、「乞食である」とか、そういう表面的な過去や経歴で判断できるものではさらさらない。
ゆえ、「生きるとは?」ということを身をもって問いかける我王の存在には、やはり感動してしまう。
だが、我々は、いくら我王に感動したとしても、本当に我王になりきることが果たしてできるのだろうか。
俺自身は、生き方が嫌でも茜丸になってしまいそうな気がしてしまうのだ。
茜丸というのは、実は我王と対照されるがゆえに、この作品の中では非常にいやな人物である。
しかし、これが一般的な、模範的な「人間」というものであろうとも言える。
茜丸の最終的に権力にへつらってしまった弱さは、読み手にとってはとても痛い。
しかし、これもこの作品の大きな魅力であると思う。


年に一回程度は、この話を読みたくなる。
自分の中に、もしかしたらあるかもしれない我王のような純粋さってやつを探し出したくなって。